
ここのお堀の中に、、名鉄瀬戸線が走っていました.
その当時、守山から名鉄瀬戸線に乗って公立の富士中に通い、高校からも、この瀬戸線の満員電車に揉まれながら、通学しました。
今では想像もつかないラッシュ時です。
クーラーもなく、、、
ガラスは割れるは、、、
しかし、この名古屋城周辺に来ると、何とも爽やかな風が少し車内に入ってきます。
大人になって、中日新聞のボールペン作画の展覧会場で、この周辺を走る名鉄電車🚃の絵を買いました。
私の宝物の一つです。
名古屋城の桜の季節は、たくさんの思い出を運んでくれます。
森幸子記
このボールペン画に感動した私は、今のテレビ塔東校のテレビ塔を挟んだ真向かいにあるカフェに入り、コーヒーを飲みながら、テレビ塔の周りにある大きな木🌲を写生していました。
木🌲が伐採されるずーっと以前のお話です。
その大きな木の私のボールペン画は、アメリカ🇺🇸のヒューストンにいるジェフさんにFAXで送信したのです。
ケータイもないあの頃の良き思い出でもあります。
読んで下さりありがとうございます♪
追記
瀬戸電
瀬戸物を運ぶために通した電車🚃です。
名古屋城のお堀に電車を走らせることはできないか?
と、大曽根〜堀川間の軌道敷設許可を申請する。
けれど、「瀬戸電気鉄道株式会社」の人々はあきらめなかった。熱心な陳情を繰り返し、その結果、明治42(1909)年になんと許可が下りる
その後、堀川〜土居下の区間が外壕線と名付けられ、運行をはじめ、“お堀電車”として愛された。
私はこのお堀電車で通学したのである。
中学時代は、終点で下車、テレビ塔までを徒歩!富士中学はその当時学年750名!半数が名古屋の各地からの越境入学者です。
越境入学の私は、冬はコートを着て学校の門の前で風呂敷に包み、制服姿で登校。 笑
コートは禁止されていたのである。
高校は土居下で下車、坂を上ると県立明和高校の裏門に到着。
この土居下の坂
を降りて、名城公園、名古屋城を一周するのが、バレーボール🏐の毎日のノルマだったのです。
日曜日のみが休日の昭和時代の通学状況です。
新しい生活が始まった皆さまへ
逞しくあれ‼️と念じる朝でもある。